随想

地方の衰退と再生

 「地方創生」が喧伝されてしばらく経つ.
 一種の政策用語でもあるこの単語は中央政府が地方に積極的に関与するどころか,地方に対する新自由主義的な自助努力を求めるものであるといっても差し支えないであろう.
なぜならば,すでに自治体独自の予算でやりくりできないところには地方交付税交付金という名の「国からのお小遣い」が投入されている.
 では「創生」とは何か.私のような古い人間には竹下内閣で1億円をばらまいた「ふるさと創生事業」(調べてください)を思い出さざるを得ない.それで何が行われたか.1億円のトイレやオブジェを作ったり,はたまた金塊を買ったりとそのくだらなさには目を覆うものがあった.
 それでは現代の「地方創生」はどうなのか.地方は息を吹き返しているだろうか.多くの実感として,「それはないだろう」というのが正直なところであろう.その根本にあるものが先に述べた「自助努力型創生方法」である.
 自助努力は安定した社会があってこそ成り立つ.なぜならば,不安定な社会では自助努力そのものが敬遠されるからである.いわば,セイフティネットのない綱渡りを強いられるのである.そして,切り捨てられる.
 未来を担う若者たちよ,「地域の強み」などの平凡な言葉に振り回されてはならない.それは一部であり,成功例なのだ.多くは写真にある通り,公共交通機関はなくなり,買物難民,医療過疎,インフラの老朽化など直面する課題は深刻である.
 北海道はもともと官依存の経済であるが,民の底力もはく奪されている今,どうすべきだろうか.
 「知恵」と多くの人は言うだろう.しかし,知恵とは歴史の蓄積であり,環境の変化にも対応せねばならないことである.瞬間風速的に「道の駅」など作っても失敗例が出てきているのがその証左である.残念ながら「地方創生」は掛け声倒れに終わるであろう.「創生」しようとすることこそがダメなのだ.まずは都市部・地方部を問わず,「安心して生活できる地域」の再生が必要なのだ.
 必要な時に移動でき,病院へ行き,雪かきの心配もなく,蛇口をひねったら飲める水が出てくる,そんな基本的なことが重要であろう.私は田舎の出身である.昨今の「地方創生」の欺瞞性を強く感じるだけに,未来を担う仲間には「地域復活」のための方策を模索してもらいたいと念じる次第である.(佐橋克彦:写真は筆者撮影)

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