一絵にまつわる小さな物語(栗山 隆)


人の尊さは、その人の存在を失ってしばらくして気づく。
かれこれ40年も昔、若く礼儀を知らなかった私は、無謀にも多忙な「荻野不二男」さんに一枚の絵を描いてくれないかとせがんだ。
荻野さんは具象から抽象まで幾層にも重ねられたその中に主題を描く独自な作風が特徴で、私は特に流氷が好きだった。
心優しい荻野さんは、時間をかけてある一絵を描いてくれた。
てる日も曇る日も雨の日も雪の日もいつもずっと我が家にはその絵がある。
あるとき、ふっと久しぶりに荻野さんのことが気になった。
相変わらず笑顔で飄々と暮らしていらっしゃるだろう。
そのような私の期待は見事に裏切られてしまった。
2021年、長らく住まわれた道東の地で逝去された。翌年荻野さんを偲んで2022遺作展が開かれた。
絵を持って遺作展覧会場に駆けつけると奥様がたいそう喜んでくれた。
この絵は何という題名なのですかと尋ねられたが、すでに題名を忘れてしまっていた私には思い出すことができなかった。
帰り際「彼はキャンパスの裏地によく題名を書くことがあったわ」と教えてくれた。
我が家へ帰り急ぎ額縁の裏を開けてみた。
青く太くゆるやかな字体で流れるように「春氷」とあった。
北国の春は進み、流氷はもとの水層に融解していったことだろう。
「春氷」は、私の瞳に今日も映っている。