コラム

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COLUMN

すてきな恩師との別れを通して‐人の臨床を考える‐
教授 栗山 隆

2016.07.07

 その日の札幌は、どこまでも青く、怖いくらい晴れわたっておりました。
 朝から言葉が見つからず、刻々と入ってくる同門からの情報に、自分はそこに行くべきか、どうしようか迷っておりました。
 以前先生から頂いた絵はがきが手元にありました。

 桜の老木が1本立っています。
 おそらく樹齢は86年だろうと思います。
 地面にしっかりと太い根をはり、大ぶりの枝を広げていますが、すでに一人では立っていることがままならず、多くの添え木に支えられて持ちこたえています。
 ただ、老木はどこまでも凜として美しいのでした。

 私は、2年前の3月30日、病室で静かに横たわっている先生に、お目にかかることがかないました。
 東京はソメイヨシノが咲き乱れ、窓がない病室でしたので、来るときに「ソメイヨシノが満開でしたよ」とお伝えすると、「私はね、山桜が好きなのよ、桜が咲くとこれから緑が美しくなるわね。ありがとう。」
 先生は帰り際、やせ細った手を差し出してくれました。
 その手のぬくもりや優しいお言葉を思い出し、札幌の地で一人静かにご冥福を祈ったのでした。

 先生は生前「臨床」とは、援助される人と援助する人との間で「共同作業」が行われる場だと説明されました。しかし、時として共同作業をしようと思っても、いかんともしがたい状況に直面し、前にも後ろにも進めないときがあります。人の援助を考えるとき、そのことに目をそらさず、「そのことを、ただ受け入れる」勇気が必要なこともあります。
 人を援助する時に、「共に」、「お互いに」、「どのように」とは、とても難しいことです。
 自分の思いと相手の状況は時としてクロスロードを渡っていくようなものなのでしょうか。
 すてきな恩師との別れを通して、そのようなことを考えたのでした。

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